「ヘイト・スピーチ」について
このところ,「情報流通促進計画」で,具体的な事件についての問題提起がなされていたり,前田朗さんが,Blog でこのところヘイトクライムに関する論述を連載されていたりする。先日は,この問題に関する集会も開催されていた(参考:日刊ベリタ : 記事 : 「ヘイトスピーチは許せない。『行動する保守!?』とどう向き合うか。」 当事者を交えた活発な意見交換も)が,日本国憲法の下でも,このヘイト・スピーチというものと表現の自由との関わりを議論しなければならない時が来ているように思う。
大事な問題ではあるが,ここではいくつかの論点を指摘するにとどめておきたい。
「ヘイト・スピーチ」をどう定義するか。個別の問題についてさまざまな意見や立場はあり得るし,それが民主主義の基礎である。ある言論活動がヘイト・スピーチであるかどうかを考える場合,異なる意見や存在を許容するかどうか,がひとつの分水嶺と思う。平穏な集会を暴力的に妨害する,あるいは行政当局に圧力をかけて会場使用を止めさせたり,後援を取り消させたりするなどは,もはや他者の言論の妨害であって,表現の自由の範疇を逸脱する行為であり,現行憲法,刑法のもとでも十分犯罪が成立し得る。ひとつの私案としては,異なる意見(あるいは政治的立場,民族,人種など)に対し,寛容な態度を取っているのかどうか,をひとつのメルクマールとすべきではないだろうか。
「ヘイト」に内在する特定対象者への攻撃性上記が,客観的態様からの定義とすれば,「ヘイト・スピーチ」の内容に着目した定義も行う必要がある。これは言論の内容の問題になるので慎重に検討しなければならないが,「ヘイト (Hate : 憎しみ,嫌悪)」という概念自体が,その対象たる人々に対する攻撃性を内在していることに注目しなければならないと思う。したがって「ヘイト・スピーチ」は単なる平穏かつ一般的な意見表明に留まらず,特定対象者に対するあからさまな攻撃的行動を指向する傾向を持つのである。
ヘイト・スピーチに対する警察・行政当局のあり方残念ながら多くの場合,ヘイト・スピーチに対し,警察当局はおそろしく寛大であり,行政当局は極めて小心である。これがまたヘイト・スピーチを唱える者たちに標的とした集会の中止や自治体による後援の撤回などの「成果」を与え,一層彼らを助長している。これは民事介入暴力の問題に良く似ている。そう,ヘイト・スピーチが暴力を伴うとすれば,それはまさしく民事介入暴力といって良い。
ヘイト・スピーチに直面した人々は,巻き込まれて共犯化するいじめを見て見ぬふりをする子どもが共犯者として巻き込まれていくように,ヘイト・スピーチは,直面した人々をいやおうなく共犯者として巻き込む圧力を持つ。言論の自由の仮面をつけて言論の自由を抹殺してゆくのである。
参考:
